評論2

美術評論家 清水 敏男

Art critic Toshio Shimizu

曹亜鋼の「桜」はどこにあるのか

画家曹亜鋼の桜の絵を見た。 桜は日本人の心に深く棲みついた花である。桜の花は 春先に南の温暖な地域から徐々に北上しやがて北の大地 に至る。標高の低いところから高いところへと桜の花が山 を染めていく。古都の庭園に咲き乱れる桜も美しいが新緑 浅い里山に山桜が人知れず咲いているのも風情がある。

もろともにあはれと思え山桜花より外に知る人もなし (先大僧正行尊)
日本では人々は様々な桜を愛でてきた。しかし桜の美は花 の盛りにのみあるのではない。桜の美は花の盛りが過ぎて 花びらが風に流され水面を埋めてやがて消えていく時間 の儚さの美学と結びついている。盛んな生と有終の美が隣 り合わせである。
願わくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃(西行)

西行は桜が散ることに無常を見出し自らの死と重ね合 わせた。しかし西行が桜の死を歌という芸術高めたことで 桜は死から救い出された。西行は多くの桜の歌を詠んだが それらは今でも人々に語り継がれ人々の心に生き続けて いる。西行の桜は、その無常観とは裏腹に散らないのである。

前置きが長くなったが曹亜鋼の桜も散らない。曹亜鋼 の桜は常に満開であり続ける。曹亜鋼の桜はマチエールが 強固であり色彩はしっかりと画面に張り付き桜色の光を発している。

散る桜と散らない桜。このことを考える上で思い出される のは『風姿花伝』である『風姿花伝』とは能楽師観阿弥の 言葉を世阿弥が編纂し15世紀はじめに成立した能の奥 義を伝える書である。(*)

観阿弥によれは能において「花」を悟ることが「このみち(能)の奥義を究むる」ことであり「一大事とも、秘事とも、ただこの一道なり」と言う。しかしその「花」は単に技から出てくるものであるならば「咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分」がある。表面的な技に頼っていては自然の花が散ってしまうように芸術の花も散ってしまうと言うのである。

しかし「真実の芸の力から生れ出る花は、咲かせることも散らせることも、自分の思いのままである」のであり、ゆえに「花」を永く咲かせることができる、と観阿弥は伝える。優れた芸術家は自在に「花」をコントロールできると言う のである。観阿弥の言う「花」とは芸術の持つアウラであり 真髄であるのだろう。

その「花」は曹亜鋼の桜の中にある。曹亜鋼の桜が散ら ないのはそれがためである。曹亜鋼の桜はいつでもそこに ある。自然の花であれば時期が過ぎると風に吹かれ花吹 雪となりやがて塵となり消え失せる。しかし曹亜鋼の桜は 曹亜鋼の筆から生まれ出で風にもびくともしない。

しかしその存在の強固さは曹亜鋼の桜が強固なマチ エールによって描かれているからであろうか。絵の具が しっかりと支持体に塗りつけられているからだろうか。 否、そうではない。物理的なところに散らない理由があるのではない。散らないのは絵の具の塗り方、絵の具の質 量にその理由があるのではない。それは絵画とは何かとい う問題と密接に結びついている。

フランスのアーティスト、イヴ・クライン(Yves Klein)は キャンヴァスを一面青く塗った自分の作品を抽象絵画と呼 ぶことを拒んだ。それは絵画ではなく非物質世界への入口 であるとしていたからである。絵画は絵の具という物質に よって成立しているが絵画自体が目指すものは物質では ないと考えた。日本で柔道を学び身体という物質を自在に 操る術を会得した上で身体という物質と身体を離脱した 非物質の世界を行き来した。イヴ・クラインにとって絵画 はその境界上にある。

日本のアーティスト、中西夏之は絵画とは何かを探求 し、絵画は自身の身体の背後から来るエネルギーが身体を通して自分の前にある平面に立ち現れるものと考えていた。絵画は物質として存在するが、しかしそれは薄い皮膜 の上に立ち現れる限りなく非物質的な危うい存在なのだ。

曹亜鋼は桜を描く時桜は見ない、という。富士山を描く ときも富士山は見ない。絵画が自然界にある物質的な存 在である桜を描いたものだとしても、それは桜ではない。そ れは平面に立ち現れた新たなリアリティである。自然界とは縁が切れている。

曹亜鋼は日本に絵画修行に来て以来春には桜を愛でて きたことだろう。桜の花の美しさは曹亜鋼の心の奥深くに棲みついた。その桜は満開の桜である。桜が散ることの美 学は確かにあるがそれは時間の経過を惜しむ美学であり 桜そのものを愛でるのは満開の時であることは言うまでもない。曹亜鋼はそのことを正面から追求したのである。曹 亜鋼によって描かれた桜を凝視すればその物質的な強固 さに目を見張るがそれは全くのフィクションであることに 気づくだろう。その物質性は確かな絵画技術によって成立しているがそこから生まれる絵画自体は物質を通り越している。満開の桜という幻想を私たちはそこにみるのだ。

それは北宋の画家范寛の『谿山行旅図』を見た時の心 もちと通じる。この巨大な絵画は圧倒的な物質的な存在 感を持って見るものを圧倒するがそこには現実世界はどこにもない。墨という物質によって立ち現れた幻想がその絵画の本質ではないだろうか。

ところで『谿山行旅図』という題名は明末の文人董其昌の跋文によるらしい。董其昌の『画禅室随筆』を書棚から探し出す(。**)この本のページを繰る。その冒頭に「俗世界 にあまえたてっとりばやい方法をすっかりとりさればすな わち胸中に有するものがあらわれる」とある。これは『風姿花伝』に通じる言葉だ。「表面的な技」に頼っていては「花」は散ってしまう。「俗世界にあまえたてっとりばやい方法」 とはその「表面的な技」と相通じる。日本に来て絵画修行 に励む中で桜の本質を考え続けた画家曹亜鋼の胸中にこ そ桜は存在するのでありそれゆえに常に満開で散ること はないのではないのだと納得するのである。

2023.5

*世阿弥編 川瀬一馬校注・現代語訳『花伝書(風姿花伝)』講談社文庫 1972年

**董其昌(1555-1636年)著、福本雅一他訳『画禅室随 筆』日貿出版社 1984年