評論2

美術ジャーナリスト 永田 晶子

Art journalist Akiko Nagata

おびただしい桜の花が、今を盛りと咲き誇って夜空に広がる。個々の花や枝々は写実手法で精緻に描かれているが、背景は濃い暗色に沈み、時代と場所を超越した抽象性を感じさせる。巨大な金色の満月にも墨が刷かれ、淡い桜色や花びらの形を引き立てる。画の前に立つ鑑賞者は、明日には散りゆく桜の可憐さと濃密な生命力が強く印象づけられるだろう。

曹亜鋼氏の「桜」シリーズは、1988年に来日して中国の伝統的な水墨画と日本画を融合すべく研鑽を重ねてきた氏が「初めて手ごたえを感じた」と振り返る絵画群だ。2011年に東京・上野の森美術館で開催された大規模個展を飾った100号の大作《月夜》《春意》をはじめ、様々な様態を陰影豊かに描き、代表作の一つになった。氏が私淑する日本画家の加山又造氏(1927~2004年)は、かつて「曹君の桜は立体感がある」と評したという。装飾性が高い華麗な作風で戦後日本画壇に新風をもたらした加山氏が注目した「立体感」について、まず私見を述べたい。

桜はいうまでもなく日本文化と密接に結びつくモチーフだ。春に一斉に開花する姿は日本の原風景ともいえ、一気に満開を迎えて散っていく姿は人間の儚い生や死の象徴とされた。しかし、桜を単体で描いた作品は、日本と中国の共通画題の「梅」と比べて多くない。江戸時代は桜の下で花見や行楽を楽しむ人々が名所絵や風俗画に頻繁に描かれ、山水図花鳥図にも散見されるが 、桜そのものを主役に据えた絵画が増えるのは明治以降と言える。近代日本画をけん引した横山大観は1930年のローマの日本美術展に出品した《夜桜図》が画業の転機とな り、奥村土牛や小林古径、東山魁夷ら世を去った巨匠から現代の中島千波氏や千住博氏まで数多くの画家が桜を主題にしてきた。

だが曹氏の桜の絵画は、近現代の日本画よりむしろ桃山期の天才絵師・長谷川久蔵による京都の智積院の障 壁画《桜図》を思い起こさせる。水墨画の傑作とされる国宝「松林図屏風」の作者・長谷川等伯の息子久蔵が八重桜を描いた本作は、一つ一つの花が胡粉を盛り上げて立体的に表現され、強い存在感を持つ。桜を主題にした唯一の国宝としても知られている。やや乱暴な言い方にな るが、ここでは儚いだけでない桜本来の力強さや生命力が、桜表現の様式化や象徴化が強まる前のみずみずしい眼で捉えられていると思う。

曹氏が描く桜は、《桜図》のように物理的に厚みがあるわけではないが、通底する立体的な迫真を感じさせる。「花がすみ」と呼ばれるように、近現代日本画において桜は淡い色のマッス(塊)にしばしば表現されるが、曹作品は一輪一輪が明快な姿を持つ。茫洋とかすむ全体美でなく、個々の花を凝視したリアルさがある。

制作手法を聞いて驚いたのは、氏が桜専用の絵筆を考案していたことだ。独自の切り込みを施した筆を用いることで蕾から落花寸前まであらゆる花びらの形状を精妙に再現できるという。そのうえで、一輪ずつ濃淡の陰影を加えていく。様々な意匠の桜の作品を手掛け名手とうたわれた加山氏が称揚した「立体感」は、そうした気が遠くなるような丹精から生まれたものだったのだ。

ここで曹氏の歩みを簡潔に振り返っておきたい。1960年に中国吉林省に生まれた氏は、画家で大学教授 の父とデザイン専門家の母に絵の手ほどを受け、次いで地元天津の大学で水墨画をはじめ様々な技法を学んだ。 転機は、天津紡績大学(現・天津工業大学)美術科講師を務めていた1987年。北京の中央美術学院で行われた加山氏の講演に大きな感銘を受け翌年、日本留学に踏み切った。国立福岡教育大学で日本画などを学び、同大学院修了後は北九州市のデザイン会社に就職したが、絵画への思いが募り、退職して画業に専念。主に福岡を拠点として、伝統的な中国水墨画をベースに日本の情景や美意識を自在に取り入れた独自の画風を編み出し、日中両国や欧米で個展を重ねてきた。伝統を刷新し水墨画の新境地を開いた画業は母国でも高く評価され、中国一級美術師・教授の称号を授与されている。

「初来日から35年、つねに『日本にいてこそ自分が描け る絵とは何か?』を考えている。中国水墨画は約2000年の歴史があり、世界に誇る名作群を生んだが、伝統的な絵画制作を繰り返しても未来はない。似ているようで実 は異なる特性を持つ日本画の技法や素材、美学を理解し取り入れることが自分の個性の確立につながり、中国と日本文化の新たな架け橋にもなる」と氏は語る。

桜以外の作品を見ても、そのパワフルな結合に目を奪われる。例えば、墨を底色に使い岩彩の色を浮かび上がらせた「重彩色」シリーズ。筆者が古代中国・馬王堆漢墓の出土品を連想した深みがある臙脂色や翡翠色を背景 に 、寺院や深山幽谷 、鳥が繊細な筆致で描かれる。モチーフの多くは日本の自然や建築から着想を得ているが、鮮烈な色遣いが場面の幻想性を高め、どこの国ともつかぬ「未知の仙境」へ見る者を誘う。

「白い恋人」と題した牡丹の作品にも注目したい。大輪の花を咲かせる牡丹は、日中両国でお馴染みのモチーフだが、氏は裏側にも彩色する中国の技法と日本画の手法を駆使し、透明感あふれる気品を画面に現出させる。「美しいものは、より美しく描かなければ意味がない」と氏は言う。水墨画について僅かな知識しか持たない筆者は多くを語る資格はないが、それでも氏の言葉に中国絵画史を貫く「気韻生動」の精神、すなわち形を超えた風格を匂いたつように描き出す気概を感じずにいられない。

その氏が近年、取り組むのが「印象Nippon」「生け花」 シリーズである。「印象Nippon」は、富士山や金閣寺、青海波、鶴など日本を象徴するモチーフがデザイン性豊かに配置され、明るくポップな印象を与える。氏が日本各地 を長年旅した記憶を画面にまとめ上げた連作だという。
「生け花」は華道にインスバイアされて様々な流派を研究し、その美を絵画に仕立てた。両シリーズ共に氏がデザインした「ひらがな」文字をグラフィカルに配しているのも特徴で、まさに中国伝統の「書画同源」を現代的に更新している。

氏が水墨画の指導と普及に果たしてきた役割も大きい。1990年に福岡に「曹亜鋼中国水墨画会」(現・曹亜 鋼水墨芸術学院)を設立して水墨画の専門教育に当たり、これまでに教えた生徒は延べ1万人を超すという。地元友好団体の中国視察や中国の水墨画家を招いた展覧 会を福岡市美術館で実現させるなど、両国の芸術交流にも力を注いでいる。

「有朋自遠方来、不亦楽乎」。あまりにも有名な孔子の この言葉は、志を同じくする友が遠路はるばる訪れて共 に学ぶ喜びを述べたものだ。35年にわたり、四季折々の「日本の美」を見つめて中国と日本文化の“ハイブリッド 絵画”を創出し、教育や交流にも尽力する曹氏は、日本の 芸術界にとってかけがえのない「友」である。

2023.5